ごきげんよう。きいです。
パソコンを修理に出している間。いつも通りに仕事をし、いつも通りに研修にも参加していました。
研修で学んだことの中から、今回取り上げたいのは「グリーフケア」です。
グリーフケアを学ぶ中で、またいろいろ考えちゃいました…。
グリーフケアって何?
調べてみると「グリーフ(grief)とは(死別などによる)深い悲しみ・悲嘆・苦悩・嘆き。」とあります。
医療者は、職務において人の死に関わることがあります。
人の死だけでなく、残されたご家族との関りもあります。
残されたご遺族のケアとして「グリーフケア」というものがあり、私たちはそれを学びます。
今までに、私が学んできたグリーフケアの中心にあるものは、「大切な家族を亡くされたご遺族へのケア」でした。
その中で「喪失や悲嘆」についても学びました。
喪失は「大切な人・物・事柄を失うこと」。悲嘆は「悲しみ、嘆くこと」。
本来の「喪失」には、死別だけでなくいろいろな事象が含まれます。
・出生により「母の胎内で守られる」ことを失う。
・卒乳は、「母の腕に抱かれながら母乳を与えられる幸福感」を失う。
・幼稚園や保育園への入園は「家庭という安全な空間で過ごす時間」を少し失う。
…それ以外にも「失恋」「失業」「転居」「転職」「離婚」「家族と音信不通」なども、喪失の体験です。
私たちはそんな喪失を度々経験しながら、時間の経過や慣れ、新しい環境や物を得るということで乗り越えていきます。
「悲嘆」も、時々思い出したり悲しみの中にどっぷり浸かったり、忘れたりしながら徐々にやわらいでいきます。
そこで、また私は考えるわけです…。
介護って、喪失と悲嘆の繰り返しじゃないかって。

喪失と悲嘆の繰り返し
例えば…。
自分を守り育ててくれた親・一緒に助け合うべき伴侶が、「守らないといけない存在」になる。(そこには「もう守ってもらえなくなる」という不安と悲しみが伴います。)
普通にできていたことが、どんどんできなくなる現実に直面し、そのフォローをしなくてはいけない。(特に「食べることと排泄についての失敗」は、大きな悲しみを伴います。)
親や伴侶の口から、人が変わってしまったような言葉が発せられるのを、受け止めないといけない。(大切な人から罵られたり・疑いの目と言葉を向けられる、その心の痛みは如何ほどでしょう。)
親や伴侶の存在が、自分の足かせになるように感じる。(介護が必要になった現実への怒り・自分の生活が脅かされることへの不安…。)
「〝自分を守り、育んでくれた親という存在〟〝自分を守り、支えてくれた伴侶という存在〟を失う」という現実に直面する。
それを介護の生活の中で、何度も何度も体験し実感するのです。
「感覚としての喪失」だけではなく、「介護のために失う、労力・時間・金銭的な損失」は大きな喪失。
グリーフケアは「遺族」だけではなく、「介護家族」にも必要なケアだと感じました。
またまた個人的見解ですが…。
次回は、介護家族へのグリーフケアとして何ができるのか?何が必要なのか?を考えたいと思うのですが。
思考を整理する時間が必要かもしれません。
ぐるぐるしてしまいそうな予感がしますので…。うまく文章にできるかなぁ?