ごきげんよう。きいです。
前回お伝えした「グリーフケア」。それについて書いているうちに、私の思考は…。
「介護って喪失と悲嘆の繰り返しじゃないか。」
「介護家族へのグリーフケアとして何ができるのか?何が必要なのか?を考えたいと思うのですが。」
…なんていうことになっております。
要は「死別以外の介護にも、グリーフケアが必要では?」ということなんです。
ケアの場面
例えば「失恋」。
介護とは関係ありませんが、これも一つの喪失の経験であり、悲嘆を伴うものです。
もし、親友が「失恋をした」と目の前で涙を流したり、電話をかけてきたら。
高校生の頃、親友と公園やファミレスでジュースか何かを飲みながら「そうか、そうか…」と話を聞いてあげたり、話さなくても肩を寄せ合って同じ時間を過ごしたり…。そんなこと、ありませんでしたか?
大人になっても、「ファミレスでジュース」から「居酒屋でやけ酒」に変わるくらい?
それでも、その行いは立派なグリーフケアなのです。
失恋の経験がない頃でも、少女漫画やティーン向けの雑誌・小説などで「友人として友の悲嘆への寄り添い方」をなんとなく知っていたような気がします。
それが「介護」になったとたん…。
介護家族である本人も「グリーフケアが自分には必要だ」ということに気付いておらず。
友人たちも「へ~、介護が始まったの?それって大変?うちの家族はまだ元気だけどさ~。今度いろいろ教えてよ。」等の発言で介護する人の気持ちを逆なで。
介護をサポートする支援者ですら「ご家族なんですから、それくらいしていただかないと…」等の発言でさらに介護する人の気持ちを逆なで。
これが介護。
なぜそうなるのでしょう…?
それは「介護家族本人に、グリーフケアが必要だという自覚がない」ことと、友人たちと支援者たちに「『介護家族には、日々喪失と悲嘆が繰り返されている』という認識がない」ということが起因しているように思います。
友人達の中には「介護の情報や認識の不足」があったり、「介護が他人事」の人々も。
「介護をしている家族には、グリーフケアが必要である。」
これは皆さまにぜひともお伝えしたいことです。

何ができるのか?何が必要なのか?
では「介護家族へのグリーフケアとして支援者に何ができるのか?」を考えてみると…。
・家族・友人・医療従事者が、共感的に話を聞くこと。
・介護家族が感じている感情・考えを伺う際には、判断や批判を避け、支持的に耳を傾けること。
・要介護者に対して、怒りや悲しみを感じることはおかしなことではないと保証すること。
・介護家族に接する際に、支援者側は「偏見や先入観、こうあるべきという価値観」に捕らわれないように注意する。また、介護家族の行動や感情の一部をみて「こういう人だ」と決めつけないこと。
・介護家族の大変だったこと・辛かったことに共感し、そのつらさを乗り越えてきた強さや頑張りを認めること。
・介護家族がどんなに気丈に振舞っていても、グリーフケアの対象である可能性を常に念頭に置くこと。
そして、介護家族はそのケアを受けるために、何が必要なのか…。
・「自分自身の介護の日常の中に、喪失や悲嘆があるのではないか」と振り返ること。
・もしあれば、その思いを表出すること。
・支援者を見つけ、共にいること。出来事を共有すること。
・支えを受け入れること。
悲しんでいても、それが伝わらないと誰もケアをしてくれない…。
だから、介護についてオープンに話せる環境って大切なんだと思います。

グリーフケアは、魔法のように気持ちを前向きにしたり、介護自体を楽にするものではありません。
喪失や悲嘆が自分を辛くさせていることを自覚し、友人や支援者が寄り添う姿勢をみせ共にあることで、介護と向き合う気持ちが少しでも楽になる。友人や支援者と信頼関係を結ぶことができる。
そんなケアが日常的に行われるようになれば、介護の辛さが少しは軽くなるかしら…?
…そんな風に思います。