看取りの在り方 ~誤嚥性肺炎だったのなら~

在宅介護

ごきげんよう。きいです。

 皆さんは、埼玉県ふじみ野市の立てこもり事件について、報道をご覧になりましたか。そして、どのように感じられたでしょうか。訪問診療医と関係者が利用者家族に散弾銃で撃たれ、医師が命を落とした事件。亡くなった利用者様の治療方針を巡るトラブルが原因と言われていますが…。医師とご家族の間を取り持つ役割を担う人はいなかったのでしょうか…。

報道によると…

 現時点で分かっていることは、撃たれた医師は数年前からこの利用者様を訪問診療していたこと。

 寝たきりだったところが、いよいよ食事ができなくなりそれに対する治療方針をめぐって、医師と家族の間で意見の食い違いがあったこと。この家族は、医師の指示に従ったが、結果的に母親が亡くなってしまったことで、恨みを抱き自宅で犯行に及んだこと。

いろいろ考えさせられる事件です。

ここからは私の勝手な想像も混じってしまいますが、よくあるケースを例に、こうだったかもしれない…を考えてみます。

誤嚥性肺炎だったなら…

 利用者様は92歳。主疾患や状態はわかりませんが、訪問診療を受けていた期間は6年と言われています。これは医師やクリニックと、とても長いお付き合いがあったということ。

それならば信頼関係もあっただろうと思うのですが…。

 それが変わってしまったのが「食事ができなくなり、治療方針をめぐった意見の違い」ではないか?

 92歳の寝たきりの方なので、もしかしたら誤嚥性肺炎を繰り返していた方かもしれません。

嚥下機能が低下し、自分の唾液や少しの水分でも飲み込みを失敗し気管に入ってしまうことで、肺炎を起こしてしまう。

 その場合、口から食事や水分を摂取することは大変危険なことになります。

 ですがここで問題になってくるのが、「食べないと死んでしまう」「食べないと元気にならない」「少しでも好きなもの・栄養のあるものを食べさせたい」という家族の思いと希望。

 「食べると危険」と「食べさせたい」のせめぎ合い。

ただ、肺炎を発症していると呼吸状態は良くないので食べることもしんどい。

点滴をしても、92歳の弱った身体は水分を吸収できずに、全身の浮腫みや炎症を起こした肺に水をため込むだけになってしまう。ゼロゼロと痰が上がって苦しそうな利用者様。

胃ろうを造るにしても、その外科的処置に耐えられる身体かどうか…。

 食べると危険と言われ、点滴をしてくれと希望しても「苦しめる結果になります」と言われる場合も…。

 点滴をトライはしても血管が持たない。皮下注射でわずかな量を入れるだけの時間が続く…。

だけど92歳の弱った身体は回復の余力も無い。

 弱っていく親を目の前にしながら、何もできない時間が過ぎていく。

 今までは自分が親のすべてをコントロールしてきたのに、死だけはコントロールできない。

「このまま自宅で看取るのか?それとも入院か…?」

 何もできない自分に問われる質問。…死に場所はどこにするのか?…

これは在宅介護のエンディングではよくあるケースなのです。

 これを「もう長く頑張ってきた。年齢もあるし、栄養を受け入れられないのは看取りの自然な流れなのだ」とご家族が受け入れられるよう、サポートする存在が必要。

指示を出す医師ではない、別の存在。それはやはり訪問看護の役割。

 ご家族のお気持ちを傾聴しながら、医師の指示が納得できないのであれば、それはなぜかを伺い、利用者様の病状を見極めながら、別れを受け入れられるように丁寧にフォローする。

 6年在宅療養を続けて訪問診療も入っていたのなら、ケアマネジャーや訪問看護、ヘルパーも入っていたはず…。

 その訪問看護が機能しなかったのならば、家族側に「アドバイスを跳ね返すほどの熱い思い」があったのかも知れない。

 そしてそこが解決しないまま、利用者様は亡くなってしまった。

26日に亡くなり、27日の夜間医師を含めたクリニックの関係者が訪問した際にも利用者様のご遺体はまだ自宅にいらっしゃった。

 それは葬儀社へ連絡をしなかったのか、ご遺体を保管する場所がいっぱいで受け入れができなかったのか?

それとも、医師を含めたクリニックの関係者に「母に謝れ」といった謝罪をご遺体の前で求めたかったのか…。

 ご家族は一日ご遺体のそばで、思うように看取ることができなかった利用者様へのどんな思いを募らせたのだろう…?

 本当に勝手な想像です。だけど内容は現実にある事。私も自分のこととして考えていく必要がありますね。

※次回は「アウェイへ足を運ぶリスク」をテーマにしたいと思います。…つづく。

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