認知症の兆候① ~母の介護が始まった日~

母の介護

 ごきげんよう!きいです。

 これからは、私がまりぃさんの認知症に気付いた頃から今までの大まかな経過を振り返っていきます。その中で、介護申請だのケアマネさんだのデイサービスだのという、いろいろなキーワードが出てきます。まりぃさんの認知症に気付いてから私がとった行動を通して、認知症専門医の受診や、介護サービスについても触れていきます。

 長い話になります。もしよかったら、一つのモデルケースだと思ってお付き合いくださいませ。

 まず今回は、私自身が「母が認知症だ」と確信した頃のことについて振り返ってみました。まりぃさんに見られた認知症の兆候。その頃、まりぃさんは一人で生活をしていました。実家に通って支援しなくてはいけない?という暗雲が漂い始めた時でした。

母に感じた違和感

 まりぃさんは子供たちが独立したあとも、頑固で我儘・自分本位な父に呆れたり、腹を立てながらもずっと共に暮らしてきました。

 父は大きな病気もしました。今夜が峠と言われたこともあったと聞いています。骨粗しょう症もあったので骨折を繰り返し、杖を突いて歩行する生活が続いていました。

そんな父がいよいよ腰椎を骨折してしまい、車椅子生活となりました。

 共に80歳を超えた夫婦です。家族以外の訪問を良しとしない父の介護が、足の悪い母にできるとは思えませんでした。車椅子生活になったのをきっかけに、二人は父の施設入所を決めました。

 それからのまりぃさんは、今までにできなかったことを楽しみました。友人と旅行に行ったり、痛む膝に良いからとスイミングにも通いました。食事も自分の食べたいものを自分の分だけ作れば良いようになりました。

 私は訪問看護師として働きながら、ごく一般的な家庭を築いていました。

 父は施設で「コールを押してもスタッフが来るのが遅い!」と、本当に忙しいスタッフの皆さんには大変申し訳ないような不満ばかり。まりぃさんを連れて面会に行くたびに、私は「何と恐れ多いことを」とたしなめていました。

 まりぃさんは、両膝の変形性膝関節症でしたが、元々頑張り屋さんだし、内臓は健康だったので、一人暮らしになっても元気でいられるはずでした。自分のための時間を持てるようになり、一人の生活を楽しく送っていたはずでした。

 それがずっと続いてくれると、思っていました。

「まりぃさんは元気だし、私も忙しいのよ。」と時々電話で話したり、月に何度かまりぃさんを誘って父の面会に行く程度の関わりが続いていました。それで良いのだと思っていました。

 ある日、仕事中にまりぃさんから電話がかかってきました。移動のために車を運転している時だったのを憶えています。

まりぃさん:「あのね。今、保険屋さんが来ているんだけど、書類を書かないといけなくて。ねえ、えい君の誕生日っていつだったっけ?」

きい:「?」

 えい君とはきぃの二つ年上の兄のことです。自分が母になった日のことを、初めて授かった息子の誕生日を忘れたと?

 それを平日の、娘の仕事中に聞いてくる?

 えい君の誕生日を伝え「仕事中だから、電話切るよ!」と切ってはみたものの、そこに残る違和感。「???」

それが最初の兆しでした。

 それまでのまりぃさんは、自分の事よりも相手の都合を優先させる人でした。特に私や兄の勉強や仕事に関することは、絶対に邪魔をしない人でした。

 それなのに、兄の誕生日を聞くために電話をかけて来たのです。それは、絶対におかしなことだったのです。

 ※認知症の兆候② ~母の介護が始まった日~へつづく…。

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