ごきげんよう。きいです。
最近ふわっと思い出す言葉があります。
認知症の方と地域で共生するための研修に参加した時に聞いた、講師を務めた医師の言葉です。
「僕は認知症になりたくないとは思いません」そうおっしゃっていました。
もしかしたら、認知症という病気は身近な存在で、年をとったら誰もが迎える状態だと言う事が言いたかったのかもしれません。
これからの介護サービスは充実していきますよと明るい展望を伝えたかったのかもしれません。
だけど、私が何度も思い出してしまう理由は、その言葉に違和感を覚えたからなのかもしれません。
だけど…私は認知症になりたくない。そう思います。
認知症の症状の出方には色々あるし、内服薬でコントロールが上手くいけば落ち着いて過ごせるのかもしれません。
それでも、実際に認知症の家族を介護して経験したことを振り返ると、自分が認知症になる将来を考えるとぞっとするのです。
徘徊した私を家族が探しまわったり、警察に捜索を依頼する電話をかけたり。
私が尿とりパッドで詰まらせたトイレを家族に片付けさせたり、夜中に火災報知機を押して飛び上がらせてしまったり。疲れて眠っているのもお構いなしに歌を唄って安眠を妨害したり。
そんな経験を、私は家族にさせたくないのです。
またある研修では、「家族が庭に植えたチューリップ。そのつぼみを認知症の方が全部摘み取ってしまっても『野菜と認識してしまっただけで、家族に食べさせてあげようとした優しい気持ちがあったからだ』と思ってあげてください。」と講師の先生は話していました。
だけど、そのご家族は球根を植えてから、芽が出てスクスクと成長する姿を楽しみにして、喜んで。いつ花が開くかと楽しみにしていたのに。
認知症の家族に、ある日突然、全部摘み取られてしまったら。
そのチューリップを植えたのが、幼い子供だったら。
絶対泣くよね。
「認知症なんだから、仕方が無いよね。優しい気持ちがそうさせたんだよね」と、私は思えない。
泣く子供に「怒っちゃダメ、許してあげなさい」とは言えない。
いくら病気がそうさせるからって、大事な物や大事な時間、大事な気持ちを台無しにされても許せるか?
許せないけれど我慢して、もがいて、諦めている。
その現実を、講師の先生は分かっているのかしら。
そう思うから何度も私の頭の中にこの「僕は認知症になりたくないとは思いません」という言葉が浮かんでくるのかもしれません。
これからは、認知症と共生する人と社会の方が、我慢をしないといけないようではダメなんだ。
そして社会に迷惑をかけないためにと、介護をする家族にすべての責任を押し付けちゃいけない。
…そう思うのです。