ごきげんよう。きいです。
まりぃさんと一緒に時間を過ごし、まりぃさんの姿を目にして、認知症と共に生きるということは、どんな感じなのかと考えることがあります。
頭痛や腹痛などの痛みなら自分も経験したことがあるので、ある程度の事は理解したり、想像することもできます。でも、認知症に関しては分からないことばかり。ああかな、こうかなと、その感覚をイメージしてみました。
認知症ってどんなふうなの?
まりぃさんには「ぶっちゃけ、認知症になるってどんな風なの?」なんて聞いたことはありません。なので、私自信が認知症になって生きていくことを、勝手にイメージしてみました。
認知症と共に生きていく人生そのものを、車の運転にたとえてみました。
~元気な頃~
私は車を運転しています。いつもの街。よく知った道。どこにガソリンスタンドやコンビニがあるかもバッチリわかります。信号も見えるし標識の意味も分かる。目的地に向かって出発!順調に快適なドライブ。一人でも平気!
~認知症の初期~
だけど、走っているうちに道にでも迷ったのかしら?どこかで曲がるところを間違えた?なんだか知らない街に来てしまったみたい。私は走り続けているけれど、どんどん目的地から遠くに離れているんじゃないかしら?
初めて見る街、初めての景色、初めての道はちょっと不安。どこかから人や自転車が飛び出してくるかもしれない。
どの道を行けばいいのかしら。ウロウロしていたらガソリンだって無くなっちゃうし、時間もどんどん経っていく。早く元の街に戻りたいけれど、どうすれば戻れるのかしら?誰か教えてくれないかしら。早く帰りたいのに…。
~認知症の中期・介助者の介入~
気が付いたら助手席に人が座っている。良かった。
ねえ、私はどうすれば目的地に向かえるの?元の街に戻れるの?私の目的地って、どこだったかしら?あとどれくらい走ればいいの?ガソリンは持つかしら?お願い、教えて?
え?右に曲がればいいのね。それは次の信号を右に行くの?それとも、その先の交差点?次は左ね。この道で良いのね?間違っていないよね?ガソリンがあるうちにスタンドにも寄りましょう。場所も教えてね。お願いよ。
随分走っているけれど、一人じゃないから少し安心。助手席の人は私がどうすればいいのか教えてくれる。どこに行こうとしていたのかは分からないけれど、右に曲がるのには、この丸いものを右に回せばいいのね。左に曲がるには反対に回すのね。スピードを落とすためには、足のペダルを踏みこむんだと、隣の人が教えてくれる。ねえ、次は何をすればいい?
~認知症の後期~
なんだかずっと走っていて、疲れちゃったわ。いつの間にか周りも真っ暗。ガソリンは切れていないけれど、車の調子も悪いみたいね。スピードが少しずつ落ちて来たから。
道の曲がり方はもう分からないけれど、まっすぐに走っていれば大丈夫みたい。周りも良く見えないけれど、大丈夫みたい。助手席の人はずっと一緒にいてくれる。
この人が笑っていれば,きっと大丈夫よ…。そのうち車も止まるでしょう…。…私も疲れちゃった。
以上、きいの考える認知症の人生のイメージと妄想でした。
不安・不安・不安!
車を運転していて、高速道路に間違って乗っちゃったり、降りるポイントを間違えた時って、「どうしよう!」と冷や汗ものです。高速道路じゃなくても、道を間違えて目的地を見失ったときの、あの不安感!
認知症の人の世界ってそんなふうなんじゃないかな、と思いました。自分がなぜ間違ったのか分からない不安。どこにいるのか分からない不安。何をしたらいいのか分からない不安。やり方が分からない不安。とにかく不安。
これはつらい…。身体の痛みはないけれど、心が痛い…。
そう考えたら分かったことが一つ。まりぃさんがいつも私を目で追っているのって、不安だからじゃないかしら。一人じゃないことを確認したり、ここにいても良いんだって実感したいから、いつも私の事を目で追っているのでしょう。
認知症の家族を介護するって、その人が運転する車の助手席に座る事かも知れない。
もし私が運転していて道に迷ってしまったときに、ただでさえ不安なのに「なんで間違えるのよ!」とか、「右じゃないって、左よ!左!」「ああ、もう。なんでこうなるかなぁ?」なんて助手席の人にガミガミ言われ続けたら…。泣いちゃうかも知れないし、逆ギレしちゃうかも。ああ、嫌!
私だったら、落ち着いて運転できるように「次の信号を左へ」「そろそろ車線を変更して」って具体的なアドバイスをくれて、間違えたとしても怒らずに「じゃあ、こうすれば大丈夫よ」って優しく言って欲しい。
家族や介護者の接し方も同じこと。
私もまりぃさんの視線に気が付いた時には、「大丈夫よ」という気持ちを込めて微笑めれば良いのだけれど。
いつも上手く微笑む自信が無いから…。とりあえず、その視線に対して「なぁ~に?」と首をひねってみようかな。